ああ、ハワイ!

ハワイ島のヒロに引っ越してきてからのアレやコレや

引っ越し守護神

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引っ越しで思い出すのは、20代に親しく付き合ったMTさんのこと。彼女の引っ越しを思い出すと勇気が湧いてくる。以下は彼女が亡くなった時に書いた追悼文だ。日付を見たら08年8月8日、888の末広がり、多分あの日が命日だったと思う。彼女らしい。今読み直して、私同様にオモチャ好きだった彼女の友情に感謝するとともに、今回の引っ越し守護神になってもらおうと思った。見守ってね、MTさん。


彼女と初めて会ったのは確か、女たちの映画祭の時だったと思う。当時、新宿で女の印刷コレクティブをやっていた私たちのオフォスの一部を、映画祭の人たちが借りていた。彼女はそのメンバーで、ミーティングによく来ていたので知り合ったのだと思う。

アパートが私の部屋から5分位のところだったので、お喋りしながら一緒に帰ったり、用もないのによく彼女のアパートに泊めてもらったりした。それから、私が渡米するまでの付き合いなので、彼女と親しくつきあっていた期間はほんの数年だけ。だから、彼女を知っていると言っても、若い頃の彼女という限定つきだ。

そんな彼女と最後に会ったのは私の本の出版パーティの時。その時も20年ぶりだったと思う。わざわざ大阪から駆けつけてくれた。私は3次会まで浮かれて、ようやく彼女の隣に座った時は彼女が帰る直前だった。すると、ニヤッと笑って、きれいなビーズのブレスレットをくれた。もちろん彼女の手作りだ。私にはまったく似合わない、レースみたいに複雑に編み込まれたデリケートな品。今、それが目の前にある。太っちょの私の手首には小さ過ぎるので、知り合いの女の子にあげようかと思っていたのだが、あげなくて良かった。

これをくれた時の「どうステキでしょ?」という自慢げな表情が忘れられない。彼女が少女に見えるのはこういう時だ。いつでも私を子供時代に連れ帰ってくれる。手先の器用な同級生、カラフルなビニール糸でブレスレットを編んでは友達にくれたりする子、みんな一人ぐらいそんな女の子を知っているはずだ。

彼女は手で作ることが大好きで、ありとあらゆる手工芸をやっていた。籐のバスケット、染色布、皮細工、編み物などの完成未完成品が彼女の部屋に堆く積まれていたものだ。ああ、あの鬱蒼たるアパート、「散らかっていて足の踏み場もない」見本のような部屋だった。

いつだったか稲荷寿司を買って訪ねた時、折角だからお膳を出して食べようというと、台所(!)に敷いてあったフトンをクルクル。すると、その下からなんとお皿が出て来た。あの時は、さすがの私も目眩がした。彼女が魔法使いのおばあさんに思えるのはこういう時だった。どこから何が出てくるか分からない彼女の部屋。マンガもいっぱいあった。それが、おもちゃ箱みたいに魅力的で何度も勝手におしかけたものだ。

彼女が8畳間だと主張していた和室はさまざまな物に埋もれ、フトンを1枚半敷くと一杯になる狭さ。それでも、枕元にはちゃんとおもちゃが置いてあった。フトンに腹這いになりながら、おもちゃのレゴの組み方を初めて教えてくれたのも彼女。赤青黄のレゴのピースを組み合わせて、家を作ったり塔を作ったり。どうしたら安定した形が作れるか、どのピースとピースを繋げると何が出来るか、みな丁寧に彼女に教えてもらった。

レゴの小さな家が邸宅になり、庭や垣根まで敷地は広がり、疲れて眠り、翌朝目が覚めるとまた組み立てた。彼女の寝起きが良い時は、食パンを焼いてくれたので、それをフトンの中で食べながら、レゴを組み立てた。こんなことをしても誰にも叱られない、大人になって良かった!と心底感激していた自分がおかしい。レゴにハマり過ぎて、彼女の家に通って組み立てを続けたが、いつ行っても製作途中のレゴは(私のために)そのままの状態で枕元に置かれていた。あんなに狭い部屋だったのに。信じられないだろうが、それが彼女の類い稀な優しさだった。

部屋が手狭になったので広いとこに引っ越したいというのは、彼女の念願だった。引っ越しを機会に不要の物も一気に整理しようという目算だったらしい。何度かトライしたが、なぜか頓挫していた。私が密かに頓挫念を送っていたからかもしれない。あのおもちゃ箱を失いたくなかったのだ。

ところが、ついに彼女は引っ越し先を決めてきた。「敷金等も払った、今度は絶対に引っ越しする」と彼女らしからぬ異様な決意だ。これは手伝わない訳にいかない、と私とミニマリストで整理の達人の二人で引っ越し現場に赴いた。現場はいつも通りの伏魔殿。ボー然とする私とテキパキと役割分担をしてくれる達人。彼女は最強の助っ人だった。

まず、マンガ本をヒモで括り、段ボール箱に不要と思われるものをドンドン入れて外に運び出すという達人の指示の元に、私たちは動き出した。ところが、2時間3時間とこの作業が続いたのちも、少しも整理された感じがない。なんとMTさんが外に出した荷物を部屋に戻していたのだ。ギョッとなって声を荒げた。「何やってんのよ。これじゃ今日引っ越しできないよ」「でも、これはさあ、初めて作った帽子だから」と潰れた帽子を見せて哀願するのだ。外に出したはずのマンガ本も部屋に戻っていた。

そんなやりとりが夕方まで続いた。「トラックは何時来るの?」「うーん」。外が暗くなっても部屋は半分も片付いていなかった。「今日は無理だね。明日でも良いの?」「うーん、それがあー、やっぱり、やめようかと思って…」
絶句する、という貴重な体験をしたのがこの時だった。

あれは何だったのだろう。助っ人だった私は、この日のことを「引っ越し事件」などと呼んで笑い話にしたものだが、今振り返ると残酷なことをしたと思う。彼女は引っ越しをしたかったハズなのだ。それが出来なかったこと、辛かったと思う。

その彼女が大阪の方に引っ越した、と聞いた時はアメリカに来てからしばらくしてからだった。手伝った友人たちは「タイヘンだった」と言葉少なく語り、そのタイヘンさは容易に想像がついた。大型トラックに荷物を積んで大阪まで行ったという。潰れた帽子もきっと荷物に入っていたに違いない。

たくさんのモノを作り、それを持ち続けて生きるのはタイヘンだったろう。でも、無口な彼女にとって、彼女の手が作り出すものが自己表現、生きること証しだったのではないだろうか。

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彼女の後ろの方に、黙々と子供たちの服を繕い、おむつを縫い、手袋を編み、布団を打ち直し、漬け物を漬け、三度のご飯を家族に食べさせて来た日本の女達の姿が浮かんでくる。また、大きなスタジオで精力的に作品を造り続ける彫刻家や画家の女たちも見えてくる。彼女はそのどちらの血も受け継いでいたのではないだろうか。

今、彼女のことを思うと、大きな龍が悠々と空を行くイメージが広がる。唯我独尊、独自の時間感覚を生きた人だった。そのために職場で叱られ、たくさんの友人を待たせたと思う。決して生きやすくは無かっただろう。でも、今はそんなつまらない時間や空間のしがらみから解き放たれて、真の自由を満喫しているに違いない。この世の厳しい修行を早々に終えて、旅立ったのだ。